文章 - 『血笑記』 二葉亭四迷

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三日目《みツかめ》だつたか、四日目《よツかめ》だつたか、覺《おぼ》えがないが、一寸《ちよツと》胸壁《きょうへき》の蔭《かげ》で横《よこ》になつて眼《め》を閉《と》ぢると、忽《たちま》ち例《れい》の馴染《なじみ》の、しかし不思議《ふしぎ》な物《もの》が見《み》える。それは靑色《あをいろ》の壁紙《かべがみ》が少《すこ》しばかりと、私《わたし》のと極《き》めた小卓《こテーブル》の上《うへ》の埃塗《ほこりまぶ》れの手着《てつ》かずの壜《びん》で、隣室《りんしつ》には妻《さい》も忰《せがれ》も居《ゐ》るやうだが、姿《すがた》が見《み》えぬ。唯《たゞ》此時《このとき》は卓《テーブル》の上《うへ》に綠色《みどりいろ》の笠《かさ》を被《き》たランプが點《とぼ》つてゐたから、宵《よひ》か夜中《よなか》だつたに違《ちが》ひない。で、かうした所《ところ》が眼前《がんぜん》に留《とま》つて動《うご》かぬから、私《わたし》は永《なが》いこと、心靜《こゝろしづ》かに、ためつすがめつ壜《びん》のグラスにちらつく火影《ほかげ》を視《み》、壁紙《かべがみ》を眺《なが》めて、心《こゝろ》の中《うち》で、もう夜《よる》だ、寢《ね》る時分《じぶん》だのに、何故《なぜ》坊《ばう》は寢《ね》ないのだらうと思《おも》つてゐた。で、又《また》壁紙《かべがみ》を眺《なが》めて見《み》ると、唐草《からくさ》に、銀色《ぎんしよく》の花《はな》に、格子《かうし》のやうな物《もの》に、管《くだ》のやうな物《もの》と――や、我《わが》居間《ゐま》ながら、かうも能《よ》く見識《みし》つてゐやうとは思《おも》ひ掛《が》けなかつた。時々《とき〴〵》目《め》を開《あ》いて、處々《ところ〴〵》美《うつく》しい明《あか》るい縞《しま》の入《はい》つた眞黑《まつくろ》な空《そら》を眺《なが》めては、又《また》目《め》を閉《と》ぢて、更《さら》に壁紙《かべがみ》を視《み》、壜《びん》の光《ひか》るのを視《み》て、もう夜《よる》だ、寢《ね》る時分《じぶん》だのに、何故《なぜ》坊《ばう》は寢《ね》ないのだらうと思《おも》ふ。一|度《ど》近《ちか》くで砲彈《はうだん》が破裂《はれつ》した。其時《そのとき》何《なに》やら兩足《りやうあし》にふわりと觸《ふ》れたと思《おも》ふと、誰《だれ》だか大聲《おほごゑ》で、砲彈《はうだん》の破裂《はれつ》した音《おと》よりも上手《うはて》の聲《こゑ》で、ワッと叫《さけ》んだ。誰《だれ》か射《や》られたなと思《おも》つたが、起上《おきあが》りもせんで、私《わたし》は凝然《ぢツ》とあからめもせず靑色《あをいろ》の壁紙《かべがみ》と壜《びん》を眺《なが》めてゐた。

軈《やが》て起上《おきあが》つて、歩《ある》き廻《まは》り、指揮《しき》をしたり、人《ひと》の顏《かほ》を覗《のぞ》き込《こ》むだり、照準《せうじゆん》を極《き》めたりしたが、心《こゝろ》では矢張《やツぱ》り、何故《なぜ》坊《ばう》は寢《ね》ないのだらう、と思《おも》つてゐた。一|度《ど》傳騎《でんき》に其《その》理由《わけ》を聞《き》いたら、永《なが》いこと何《なん》だか事細《ことこま》かに説明《せつめい》して呉《く》れて、二人《ふたり》で點頭《うなづき》あつた。傳騎《でんき》は笑《わら》つた。其面《そのかほ》を見《み》ると、左《ひだり》の眉《まゆ》を釣上《つりあ》げて、背後《うしろ》の誰《だれ》かに擽《くす》ぐツたい目交《めまぜ》をしてゐたが、背後《うしろ》には誰《だれ》かの足《あし》の裏《うら》が見《み》えたばかりで、外《ほか》には何《なに》も見《み》えなかつた。

此時《このとき》四邊《あたり》は最《も》う明《あか》るくなつて居《ゐ》たが、不意《ふい》にポツリと降《ふ》つて來《き》た。なに、雨《あめ》と云《い》つても矢張《やツぱり》故鄉《くに》で降《ふ》るやうな雨《あめ》で、ほんの詰《つま》らん點滴《しづく》では有《あ》つたけれど、不意《ふい》に、降《ふ》らずもの時《とき》に降《ふ》つて來《き》たので、皆《みな》濡《ぬ》れるのを畏《おそ》れて、狼狽《らうばい》して射擊《しやげき》を中止《ちうし》し、砲《はう》も何《なに》も放散《ほりちら》かして置《お》いて、やたら無性《むしやう》に其處《そこ》らの物蔭《ものかげ》へ逃《に》げ込《こ》むだ。只《たツ》た今《いま》私《わたし》と物《もの》を言《い》つてゐた傳騎《でんき》は、砲車《ほうしや》の下《した》へ潜《もぐ》り込《こ》むで身《み》を縮《ちゞ》めてゐたが、――危《あぶ》ない、今《いま》にも壓潰《おしつぶ》されるかも知《し》れないのに、太《ふと》つた砲手《はうしゆ》は、何《なん》と思《おも》つてか、或《あ》る戰死者《せんししや》の服《ふく》を剝《は》ぎに掛《かゝ》つた。私《わたし》は陣地《ぢんち》を走《はし》り廻《まは》つて、蝙蝠傘《かうもりがさ》だか、外套《ぐわいたう》だかを捜《さが》してゐた。蔽《かぶ》さる雲《くも》の中《なか》から雨《あめ》の降《ふ》り出《だ》したのは隨分《ずゐぶん》廣《ひろ》い塲面《ばめん》だつたが、其《その》塲面《ばめん》全體《ぜんたい》にふツと妙《めう》に寂然《しん》となる。榴霰彈《りうさんだん》が一《ひと》つ後馳《おくればせ》にブンと飛《と》んで來《き》て、パッと破裂《はれつ》して、又《また》寂然《しん》となる。寂然《しん》となつたので、太《ふと》つた砲手《はうしゆ》の荒《あら》い鼻息《はないき》が聞《き》える。石塊《いしころ》や砲身《はうしん》を打《う》つ雨《あめ》の音《おと》も聞《きこ》える。かう寂然《しん》とした中《なか》で、ぱら〳〵といふ閑《しづ》かな秋《あき》めかしい雨《あめ》の音《おと》を聽《き》き、濡土《ぬれつち》の香《か》を嗅《か》ぐと、淺《あさ》ましい血羶《ちなまぐさ》い夢《ゆめ》が瞬《またゝ》く間《ま》覺《さ》めたやうな氣《き》がして、雨《あめ》にきらつく砲身《はうしん》を見《み》れば、幼《おさな》い頃《ころ》の事《こと》でもない、初戀《はつこひ》でもない、しめやかに懷《なつ》かしい何《なに》かゞ、不思議《ふしぎ》にもふと想出《おもひだ》される。此時《このとき》遠方《ゑんぱう》でドンと最初《さいしよ》の一|發《ぱつ》が際立《きはだ》つて音高《おとたか》く鳴《な》ると、一寸《ちよツと》寂然《しん》としたのに魅《み》せられてゐた氣味《きみ》は去《さ》つて、皆《みな》隱《かく》れ塲《ば》から這出《はひだ》す。逃込《にげこ》む時《とき》のやうに、這出《はひだ》す時《とき》も唐突《たうとつ》だつた。太《ふと》つた砲手《はうしゆ》が誰《だれ》かを叱《しか》り飛《と》ばす。砲《はう》が鳴《な》る、又《また》鳴《な》る――と散々《さん〳〵》惱《なや》まされ拔《ぬ》いた腦《なう》が又《また》絳《あか》い霞《かすみ》に直《ひた》と鎖《とざ》される。雨《あめ》は何時《いつ》止《や》んだか、誰《だれ》も氣《き》が附《つ》かなかつたが、砲手《はうしゆ》が戰死《せんし》して其《その》むく〳〵と太《ふと》つた顏《かほ》の肉《にく》が落《お》ちて黄《き》ばむでも、尙《な》ほ點滴《しづく》が垂《た》れてゐたのを今《いま》に覺《おぼ》えてゐるから、何《なん》でも隨分《ずいぶん》長《なが》いこと降《ふ》つてゐたに違《ちが》ひない。

未《ま》だ生若《なまわか》い志願兵《しぐわんへい》だつたつが、私《わたし》の前《まへ》に直立《ちよくりつ》して擧手《きよしゆ》の禮《れい》をしながら報告《ほうこく》するのを聞《き》くと、司令官《しれいくわん》から、其隊《そのたい》はもう二|時間《じかん》支《さゝ》ふべし、されば援兵《ゑんぺい》を送《おく》るといふ命令《めいれい》ださうだ。私《わたし》は何故《なぜ》坊《ばう》はまだ寢《ね》ないのだらうと心《こゝろ》では思《おも》いながら、口《くち》では何時間《なんじかん》でも支《さゝ》へてお目《め》に掛《か》けると答《こた》へた。さう答《こた》へた時《とき》、何故《なぜ》だか其《その》志願兵《しぐわんへい》の面《かほ》がふと目《め》に留《と》まる。大方《おほかた》非常《ひじやう》に蒼褪《あをざ》めてゐた所爲《せゐ》だつたらう。之程《これほど》蒼白《あをじろ》い面《かほ》を見《み》た事《こと》がない。死人《しにん》の面《かほ》だつて、此髭《このひげ》のない若若《わかわか》しい面《かほ》から見《み》れば、まだ紅味《あかみ》がある。必《かなら》ず途中《とちう》で度膽《どぎも》を拔《ぬ》かれたのが未《ま》だ直《なほ》らなかつたのに違《ちが》ひない。目庇《まびさし》へ手《て》を擧《あ》げてるのは、この慣《な》れた無雜作《むざうさ》な手振《てぶり》で、氣《き》も漫《そゞ》ろになる程《ほど》の怖《おそ》ろしさを紛《まぎ》らさうとしてゐたのだらう。

「怖《おそ》ろしいのか?」といひながら其手《そのて》に觸《ふ》れて見《み》ると、手《て》は棒《ぼう》のやうに硬《こは》ばつてゐたが、當人《たうにん》は幽《かす》かに莞爾《にツこ》としたばかりで、何《なん》とも言《い》はなかつた。いや、寧《むし》ろ口元《くちもと》で微笑《びせふ》の眞似《まね》をしたばかりで、眼《め》には唯《たゞ》初々《うひ〳〵》しさ、怖《おそ》ろしさが光《ひか》るのみ、其外《そのほか》には何《なに》も無《な》かつた。

「怖《おそ》ろしいのか?」と私《わたし》は又《また》優《やさ》しく言《い》つて見《み》た。

志願兵《しぐわんへい》が何《なに》か言《い》はうとして口元《くちもと》を動《うご》かした時《とき》、不思議《ふしぎ》な、奇怪《きくわい》な、何《なん》とも合點《がてん》の行《ゆ》かぬ事《こと》が起《おこ》つた。右《みぎ》の頰《ほう》へふわりと生溫《なまぬる》い風《かぜ》が吹付《ふきつ》けて、私《わたし》はガクッとなつた――唯《たゞ》其丈《それだけ》だつたが、眼前《がんぜん》には今迄《いままで》蒼褪《あをざ》めた面《かほ》の在《あ》つた處《ところ》に、何《なん》だかプツリと丈《たけ》の蹙《つま》つた、眞紅《まつか》な物《もの》が見《み》えて、其處《そこ》から鮮血《せんけつ》が栓《せん》を拔《ぬ》いた壜《びん》の口《くち》からでも出《で》るやうに、ドク〳〵と流《なが》れてゐる所《ところ》は、拙《まづ》い繪看板《ゑかんばん》に能《よ》く有《あ》る圖《づ》だ。で、そのプツリと切《き》れた眞紅《まつか》な物《もの》から血《ち》がドク〳〵と流《なが》れる處《ところ》に、齒《は》の無《な》い顏《かほ》でニタリと笑《わら》つて赤《あか》い笑《わらひ》の名殘《なごり》が見《み》える。

これには見覺《みおぼ》えがある。之《これ》を尋《たづ》ねて漸《やうや》く尋《たづ》ね當《あ》てたのだ。其處《そこ》らの手《て》が捥《も》げ、足《あし》が千切《ちぎ》れ、微塵《みぢん》になつた、奇怪《きくわい》な人體《じんたい》の上《うへ》に浮《う》いて見《み》える物《もの》を何《なに》かと思《おも》つたら、是《これ》だつた、赤《あか》い笑《わらひ》だつた。空《そら》にも其《それ》が見《み》える。太陽《たいやう》にも見《み》える。今《いま》に此《この》赤《あか》い笑《わらひ》が地球全體《ちきうぜんたい》に擴《ひろ》がるだらう。