文章 - 『火星の記憶』 Raymond F. Jones

閉じて入力を開始する
その日は暖かく日が照っていた。彼とアリスは早めに宇宙空港について、出発前の旅行の興奮を楽しんでいた。二人とも、子供のときから夢にまで見ていたこと、火星のすばらしいドーム型都市や、遺跡をめぐる旅に出るのだ。

アリスは、ミシガン湖に向かって開けた水上停泊地に巨体を横たえる宇宙船をはじめて間近に見て圧倒された。「なんて大きいんでしょう。こんな大きな宇宙船がどうして地球の外に飛んでいけるの?」

メルは笑った。「そんなこと、心配するなよ。飛ぶことはわかっているんだ。それだけで充分じゃないか」しかし彼も、そのとてつもない大きさと、豪華船の優雅な外形に感嘆せずにはいられなかった。彼はアリスと違って、宇宙船を間近に見るのはこれがはじめてではなかった。新聞記者の仕事で、火星というすばらしい保養地へ行ったり、そこから帰ってきた有名人・著名人をインタビューした折、何度も宇宙船を見たことがあった。

「よく見ててごらん」とメルは言った。「発着のたびにニュースに出る有名人がたくさん見つかるから」

アリスはメルの腕にしがみつき、同じ船の乗客となる有名人を数名見つけると、顔を紅潮させた。「最高に楽しい旅になりそうね、あなた」

「のけぞるくらい楽しいぞ」メルは口調こそなにげなかったものの、実はアリスのはじけるような興奮を楽しんでいた。

船は完全に平衡状態に保たれていて、離陸の際、乗客は座席に着く必要さえなかった。彼らは舷窓に群がり、船がミシガン湖の水上を半分ほどかすめて離陸するとき、後ろに飛びすさぶ陸地や水を見ていた。ぐんぐん角度を上げて大気圏上層部に突入すると、人工重力システムが作動して水平飛行をしているような錯覚を人々に与えた。そのあいだ地球はゆっくりと後ろに退いていった。

メルとアリスはおとぎの国を実現したようなサロンや広々したデッキを歩き回った。時間の感覚などすっかりなくしてしまった。彼らは巨大宇宙船とともに永遠、無限の宇宙に浮かんでいたのだ。

はじめて胸騒ぎを感じたのがいつだったのか、彼ははっきり覚えていない。乗務員の態度が変化したのが原因だったような気がする。それまでどんな場所でも、絶えず乗客を喜ばせ、楽しませようとしていたのに、三日目の朝、彼らはその気くばりをふいと止めてしまったのである。

ほとんどの乗客はそのことに気づいていないようだった。アリスに話してみると彼女は笑った。「あなた、なにを期待しているの?まるまる二日間、わたしたちに船内を案内したり、ゲームの仕方を教えていたのよ。旅が終わるまでずっとお守りをしてくれると思った?」

そう言われればそうだ。「君の言う通りなんだろうな」メルは納得したわけではないがそう言った。「けれども、連中、いったいなにをやっているんだ?今朝は全員が大急ぎでどこかへ向かっているみたいだ」

「きっとなにかやらなくちゃならないことがあるのよ、船の操縦の関係で」

メルは疑わしそうに頭を振った。

アリスは彼と一緒にデッキをうろついたり、ほかの乗客のゲームを肩越しにのぞいたり、いくつもある望遠スクリーンで星や星雲を見たりしていた。その一つを見ているとき、彼らははじめて宇宙空間に浮かぶその影を認めたのだった。最初は小さくしか見えなかったが、黒い影はひとつの星の前を横切り、その星をまたたかせた。それがメルの注意を引いた。真っ暗な宇宙でまたたく星。

間違いないと思って、彼はアリスの注意をそれに向けさせようとした。「あそこでなにか動いているぞ」そのときまでに影は小さな黒い弾丸のような形になっていた。

「どこ?なにも見えないけど」

「いま星のかたまっているところを動いている。見ろよ、星を隠しながら動いているじゃないか」

「別の宇宙船だわ!」とアリスは叫んだ。「どきどきしちゃうわね!この広大な宇宙で別の宇宙船とすれ違うなんて!あれ、どっから来たのかしら」

「そしてどこに行くんだろうね」

星々を横切る、そのゆっくりした、正確な動きを二人は見つめた。数分後に乗務員がそばを通った。メルは彼を呼び止め、スクリーンを指さした。「あの船はなんなんだい?」

乗務員は一目でその正体がわかったようだった。しかしすぐに答えようとはしなかった。「火星定期航路船です」と彼はようやく言った。「もう少ししたら船のドッキングと乗り換えのアナウンスがあります」
「乗り換え?」メルは不思議そうに訊いた。「乗り換えなんて聞いてないぞ」

「いいえ、乗り換えるんです」と乗務員は言った。「いま乗っているのはただのシャトル便です。われわれはあの定期航路船に移って、残りの旅をするんです。切符をお求めになったとき、説明があったはずですよ」彼は急いでその場を離れた。

切符を購入したとき、そんな説明はなかったと、メルは確信を持って言うことができた。振り返ってスクリーンに戻ると、黒い宇宙船がマーシャン・プリンセス号との接続針路にそってどんどん近づき、大きくなっていくのが見えた。

船内放送が突然鳴り響いた。「船長からご案内します。乗客の皆様は全員、シャトルから火星定期航路船へお乗り換えの準備をなさってください。手荷物をおまとめくださいますようお願いします。船倉のお荷物は皆様にお渡しすることなく、移し替えいたします。ご乗船いただき、まことにありがとうございました。本船は十五分後に定期航路船と接続する予定です」

まわりのざわめき声からメルはほかのみんなも驚いていることを知った。しかし彼らは興奮するだけで、疑問に思うことはなかった。

アリスですらいまは興奮をつのらせていた。ほかの人々が、二人が見ているものに気づいて、まわりに集まってきた。「すごく大きいわ」とアリスが小声で言った。「この船よりはるかに」

メルは移動してスクリーンの前のその場所をほかの人々に譲った。巨大な黒い宇宙船が近づいてくると思うと、胸騒ぎはますます烈しくなった。彼は確信した、あの宇宙船は真っ黒い色をしているぞ、と。スクリーンが白黒だからそう見えるのではないのだ。

なんだって宇宙のど真ん中で乗客を乗り換えさせるのだろう。マーシャン・プリンセス号は充分に火星まで旅することができる。実際、もう三分の一以上の航路を飛んできたのだ。なぜそう感じるのか、はっきりとはわからないが、なにかがおかしい。むろんコネモーラ宇宙航空のような大会社が五千人以上の搭乗客に不便をかけるようなやり方はしないだろう。胸騒ぎを感じるなんてバカげている、と彼は思った。
しかし胸騒ぎは消えなかった。

彼はスクリーンに群がる人々のところへ戻り、アリスの腕を取って、その場から連れ出した。

彼女はいぶかるように彼を見た。「こんなにわくわくすることってないわ。わたし、見ていたいんだけど」

「時間がないんだ」とメルは言った。「スーツケースに入れるものがたくさんあるだろう。下の部屋に戻ろう」

「みんなだって荷物をまとめなきゃならないのよ。急ぐことないわ」

「船長は十五分って言っていたじゃないか。どん尻になるのはごめんだぜ」

アリスは不承不承あとをついていった。彼らの部屋はサロンからかなり離れている。部屋までたどり着いたとき、ほとんど十五分が過ぎていた。

メルは部屋のドアを閉めるとアリスの肩に手を置いた。彼は用心深くあたりを見回した。「アリス――ぼくはあの船に乗りたくない。なにかが変だ。なにが変なのか、わからないけど、あの船に乗るのは止めよう」

アリスはまじまじと彼を見た。「気でも狂ったの?あんなに胸をふくらませて計画を立てたのに、いまさら火星に行きたくないなんて」

メルは二人のあいだに急に壁ができたような気がした。彼は必死の思いでアリスの肩をつかんだ。「アリス――あの船が火星に行くとは思えない。たわごとだと思うかもしれないが、聞いてくれ――マーシャン・プリンセス号がただのシャトル便だとか、こんなところで別の船に乗り換えるだとか、そんな話しは一言もなかった。だれもそんな話しは聞いちゃいない。マーシャン・プリンセス号は火星までなんの問題もなく飛行できる宇宙船だよ。こんなにでかい船がただのシャトル便だなんて、ありえない」

「むこうの宇宙船はもっと大きいわよ」

「どうして大きいのが必要なんだ?もっと広くなきゃ旅はつづけられないか?」

アリスは彼の手を振り払った。「そんなの知るわけないし、知りたくもないわ!」と彼女は怒って言った。

「わたしが休暇をあきらめて、宇宙のこんなところで引き返すと思っているなら、あなたはどうかしているわ。帰りたいならひとりで帰って!」

アリスはくるりと振り返るとドアのほうへ駆け寄った。メルはあとを追いかけたが、ドアのところに来たとき、彼女はもうそこを通り抜け、うごめく群衆の中に溶け込みつつあった。力ずくで彼女を部屋に連れ戻すことはできなかった。たぶん数分もしたら荷物をまとめに帰ってくるだろう。彼は部屋に戻ってドアを閉めた。

とはいえ、メルは自分の予想がまちがっていることを知っていた。意地の張り合いならアリスも負けてはいない。彼のほうが荷物をまとめてついてくると考え、別の船に乗り移ってしまうだろう。彼はベッドに座り、一瞬、頭を抱えた。かすかな振動が船体を走り抜け、金属がぶつかる、うつろな響きが聞こえた。正体不明の船がマーシャン・プリンセス号とドッキングしたのだ。いまエアロックを連結している。

舷窓から信じられないほど巨大な宇宙船が見えた。窓に近づき、カーテンを押し開けた。彼の印象は正しかった。船は真っ黒だったのだ。黒くて、名前がなく、窓もない。見たかぎり、船体にはマークや舷窓がいっさいついていなかった。

これからどうすればいいのか、わからなかったが、しかしあの船に乗らないことだけは確かだった。部屋の中を歩きながら、自分の心を満たしているのは愚かしい神経症的な不安にすぎない、コネモーラ宇宙航空のような大会社が五千人の人にたいして――いやひとりの人間にたいしてさえ――ふらちなことをたくらむわけがない、と自分に言い聞かせた。彼らがそんな危険なまねをするはずがないではないか。

彼はその不安を振り払うことができなかった。どんなことになろうとも、あの黒い船には乗らないぞ、と彼は決意した。

部屋を見まわす。ここにいるわけにはいかない。きっと見つかってしまう。どこかに隠れなければ。彼はじっと立ちつくし、舷窓の外を凝視した。船の中には安心して隠れていられる場所はない。

でも船外ならどうだろう。

アリスのことを考えると決心が鈍った。しかしあの黒い船がなんであろうが、彼まで乗り込んでしまっては、だれをも助けることができないではないか。彼は地球に帰り、なにが起きたのかを突き止め、その筋に警告しなければならないのだ。アリスを助けるにはそれしか方法がないのだ。

彼は用心深く部屋のドアを開け、外に出た。廊下は先を急ぐ乗客でいっぱいだった。手荷物を持ち、興奮におたがい笑いさざめいている。彼もそれに加わり、乗務員を警戒しながらゆっくりと歩いた。廊下に乗務員はひとりもいないようだった。

絶えず壁際にそって群衆とともに移動していくと、脱出室と記された丸いくぼみにたどり着いた。急ぐ群衆に押されでもしたかのように、彼はその中に後ろ向きに入った。自動ドアが彼を受け入れるために開き、そして閉じた。

この小部屋は法によって船内に何十ケ所と設けられたもののひとつだった。脱出室には非常時に個人が船外へ脱出できるよう、宇宙服が置かれてある。本来、使われるはずのない部屋だった。緊急事態が発生して船を捨てなければならないときに、宇宙服を着て宇宙に出ることは、船に残るのと同じくらい自殺的な行為であるといえる。しかしがんこな立法者たちはそれらの必要を法令で定め、乗客はこの部屋と宇宙服の使い方についておざなりな説明を受けるのである。もっともそんな説明は右の耳から左の耳へ通り抜けるだけなのだけれど。

メルはその説明を必死に思い出そうとした。キャビネットに吊されている宇宙服を調べているとき、羽目板に同じ説明をくり返した使用方法のパネルが貼られているのを見つけ、ほっと安心した。説明通りに、ゆっくりと、ひとつひとつ手順を踏んで宇宙服を着た。装着に悪戦苦闘したのと、発見される恐れから、汗がしたたか噴き出しはじめた。

見つかることなく、ようやくこの扱いにくい装備を整えることができた。この部屋のエアロックには、開けられたときに乗務員に注意をうながす警報がついているのだろうか、と彼は思った。一か八かの賭だ。彼はドアのロックが宇宙服の中からしか操作できないようになっていることに気がついた。どうやら無防備なまま船を離れることができない仕組みになっているらしい。こんな安全策がとられているなら、警報はおそらくついていないだろう。

彼はロックをひねり、部屋の中に入った。外側のドアを開けると目の前には宇宙空間の闇が広がっていた。