文章 - 『お目出たき人』 武者小路実篤

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よすぎる程の女である。自分の目に映じた通りに鶴の近處の人も友逹も先生も賞めてゐるさうである。賞める許りである。しかし自分の鶴を戀し得たのは鶴の顏が美しかつたからである。美しい許りではない、美しい點だけで鶴より優つてゐる人は近處にもゐる。しかし醜くかつたら、又十人並以上でなかつたら自分は鶴をかくまでには思ひはしなかつたらう。自分は鶴の顏の醜くヽなる事を恐れてゐる。しかし今となつて鶴が醜くヽならうとも自分は鶴を捨てはしない。その時自分は鶴と結婚が出來たら喜ぶであらう。自分は始めは鶴の顏や姿を愛したらう。しかし今は鶴そのもの、目に見えないものを愛してゐると信じてゐる。しかし鶴の美しいことを望む、切に美しくなることを望む、しかし他の男の注意を惹くことを恐れる。さうしてもう鶴は多くの男の注意を惹いたにちがいない。鶴の父は他からの緣談を斷つてゐると云ふではないか。

なにしろ鶴がどうなつたか自分は知りたい。處が運命の神はこの願ひを五月十二日に叶へてくれた。

この日は水曜日で中野の友の休みの日だ。自分は天氣がいヽので不意に八時頃中野の友を訪問することにきめた。さうして直ちに自家を出た。九時頃友の家についた。暫く話してから散步した。靑々した麥畑や、雜木林の中を澄んだ空や、黑い土を見ながら步いた。都會に許り居る自分にはこの半田舎の空氣はなんだか懷かしい。

『僕も家を持つたら中野に來やうかな』と云つた。

『是非來玉へ』と友は云つた。さうして思ひついたやうに『例の話はどうなつた』と云つた。

『相變らずさ、だめとも思ふが、うまくゆくやうな氣もする』と答へた。

『どうかなりさうなものじやないか』と友は云ふ。

『もうするだけのことをしたのだから仕方がないさ』

『甘くゆくやうな氣がするがね』

『僕もさう云ふ氣がするが、駄目な方が本當だらう』

自分はかう云つた時淋しい氣がした。さうして友のかはりにわきに鶴が居たらと思つた。

自分は話頭を變へた、さうして十一時半頃まで友の所に居て歸路についた。中野の停車塲まで友は送つて來た。電車は來てゐない。さうして中々來ない。自分は來てくれない方がいヽのだ。自分は中野の友の所へ來る時、歸る時、鶴と電車で同車することを想像しないことはない。さうして電車をまてばまつ程鶴に逢ふ機會の多いやうに思へて嬉しい。

その内に電車が來た。自分は友と挨拶して電車にのつて眞中より少し後ろに腰をかけた。のつて暫くしてから出た。鶴は停車塲で電車を待つてゐるかも知れないと思つた。しかし今十二時頃だから飯を食つてゐるだらうと思ひ返した。しかし何時ものやうに大久保につくことを樂しみにしてゐた。電車が柏木に着いて一寸止つて柏木を出た。自分の胸はせばまるやうに覺えた。之は珍らしいことではない。さうしてかう云ふ感じを何十度味つたか知れないが、鶴に逢つたことはたヾ一度だつた。それは去年の四月四日である。

電車が大久保につく時、自分はこわ〳〵プラツトホームを見た。六七人まつてゐる人があつた。その内に若い女が一人ゐた。鶴じやないかと思つてゐる内に電車は益々近づいて止つた。
鶴だつた!鶴はこの瞬間に自分に氣がついたらしかつた。後ろから乘らうとした足がこの時ピタツ[#「ピタツ」に傍点]と止つた。鶴は引きかへして前から乘つた。自分と見合つた時、目と目があつた。鶴は赤い顏して目をそむけた。さうして自分の腰かけてゐる右側に腰をかけた。鶴と自分の間には三人の人がゐた。

自分は鶴の大人になつたのに驚いた。鶴は相變らず粗末な着物を着て薄くお白粉をぬつてゐた。自分は鶴程美しい女を見たことはないと思つた。

優しい、美しい、さうして表情のある顏、生々した目、紅の口唇、顏色もいヽ、自分は鶴の顏をもつとはつきり見たいと思つた。しかし間にゐる人が邪魔になる。赤い髮の毛が一寸見えるだけだ(鶴の髮毛は赤い)自分のわきには勞働者がゐた。その隣りが軍人で、その隣りが四十許りの女で、その向ふに鶴がゐるのだ。

自分は向い側の空いてゐる席に鶴の腰かけなかつたのを殘念に思つた。しかしあわてた樣子、自分と顏をあはせるのを氣まりわるく思つて同じ側に腰をかけたことを嬉しく思つた。

新宿で可なり人がのつた。代々木では殆んど滿員になる程人がのつた。自分は老人か子供を負《おぶ》つてゐる人が來てくれるといヽなと思つた。さうすれば自分は何げなく立つことが出來る。さうして鶴を見ることが出來る。しかし自分の前には男の人のみ立つてゐる。

千駄ヶ谷で少しおりた。信濃町では五六人おりて、三四人のつた。四谷につく少し前に自分は立つた。鶴の方を見た。鶴と自分の目は逢つた。鶴はすぐ目を轉じた。自分は思ひ切つて鶴の前を通つて止ることにした。電車はとまりかけたが鶴はたヽない。さうして自分に顏を背けてゐる、電車はほんとに止つた。自分は鶴の前を通らうとした。この時不意に鶴は立つた。自分は嬉しかつた。自分の手は鶴の背中にふれた。自分は鶴についで電車を降りやうとした。この時入口のそばにゐた子供をつれた人が立つた。自分は厚顏《あつかま》しくその男をかきのけて鶴のすぐあとに從ふ勇氣がなかつた。自分は鶴と自分の間に二人を入れた。

自分は電車をおりると二人を逐ひこした。さうして改札口を鶴について出やうとした。しかし鶴は改札口に逹した時一寸後ろを見た。自分を見た。さうして身體を少し右によせて自分に先にいらつしやいと云はぬ許りの態度をとつた。自分は夫の權威を以つてさきに出た。しかし自分の心はあがつてゐた。切符を改札掛に渡さうとして落してしまつた。自分は落ちた切符をたヾ眺めて改札掛の拾ふのを見て、なるたけ落ついて停車塲を出た。出て右に折れて段々を左側のはしを通つて登つた。さうして自分はふり向いた。鶴と又顏をあはせた。一階段を登りおはつてふりかへると鶴は自分の通つたあとを登つてくる。矢張左側のはじを通つて。

自分は段を上りきる前に又ふり向いた。鶴は靜かに自分の步いた所を步いてくる。自分は登りきつて右に折れて麹町通の方へ行つた。ふり向くと鶴は段々を上りきつて未だ自分のあとをついてくる。自分はもう夢中だ、嬉しい。

『お鶴さん』と聲をかけたい程自分は親しさを感じた。さうしてさう聲をかけても鶴はおどろかないで、

『なに御用?』と笑ふやうな氣がした。自分は足はおそくなつた。自分は電車道をよこぎつて麹町通の左側を通つた。鶴は電車通をよこぎらずに右側を步いてくる。

自分は何度ふり向いたか知れない。その都度、鶴と顏をあはせた。あはせるとあはてヽ自分は顏を元に戾した。鶴も顏をそむけたやうに思ふ。

自分は鶴が自分を愛してゐてくれたと思はないではゐられなかつた。自分の心は嬉しさにおどつた。

眞心は眞心に通ずる。自分が鶴を戀してゐるやうに、矢張り鶴も戀してゐてくれたのだ。

自分の足はおどつた。自分の足はつい早くなつた。六丁目あたりに來てふり向いた時、最早鶴の姿は見えなかつた。自分は鶴は何處かの商店《みせ》に入つてゐるのではないかと思つたが見えなかつた。しかし自分は嬉しくつてたまらなかつた。自分は自家に急いだ。

鶴は自分を戀してゐるのだ。鶴は自分の妻になるのだ。二人は夫婦になる運命を荷つて生れて來たのだ。

なにしろ今日は嬉しい日だ。記念とすべき日だ。鶴も嬉しく思つてくれてるだらう。自分は自家に歸つてこの喜をもらさないではゐられなかつた。母に逢つて今日鶴に逢つてよ。鶴はそれは美しくなつてよ。僕は萬龍より鶴の方が何十倍美しいか知れないと思ひましたよ。と云ひたかつた。母は萬龍を或日見て、美しい〳〵と感心してゐたことがあつた。さうして鶴のことはさう美しいとは云はない。母に三年前自分は鶴の自分の室の窓の前を通る處を見せたことがある。

何しろ自分はおちついてゐられない。しかし母に打ちあけて云ふのは氣まりがわるかつた。晝飯食つてからもじつとしてはゐられないので神田に行つた。さうして一人鶴のことを思つて微笑《ほヽえ》んだ。

美しい、美しい、優しい、優しい、氣高い、氣高い、鶴は女だ!

自分はその夕、麻布の友を訪れて、『鶴に逢つたよ』と簡單に話した。友は『さうかい、そりやよかつたね』と云つた。

自分は五月十二日に鶴に逢つてから愈々鶴と夫婦になれるやうに思つた。さうして鶴と夫婦になれたあとのことを考へた。

自分は夫婦となつたあと何時迄も幸福にゐられるやうな氣がする。世間の普通の夫婦間のやうに二人の間に面白くないことが起るとはどうしても想像が出來ない。淫慾をつヽしみ。お互にいたわつて感謝しつヽゆくならば不和はおこり得ないやうに思はれる。しかし人々は經驗ある人々はかう思ふ自分の考を若いと云つて、獨身の空想と云つて心から冷笑することを知つてゐる。

世に自己一個の經驗を笠にきて總ての若者が自分の踏んだ道をその通りふむときめて、先生顏する奴程自分にとつて癪にさわる奴はない。時分は理想的の結婚をし、理想的の家庭をもつて見せ、彼等の鼻をあかしたく思ふ。自分は彼等のやうに細君を玩弄物とは見ない。姙婦の醜くヽなること、ヒステリー的になることを自然と思つてゐる。その苦痛に多大の同情をはらつて見せる。自分は性慾の價値を眞に發揮して見せる。眞の戀を味つて見せる。自分は彼等の見出すことの出來ない禍根を見出して未だ芽の内に枯して見せる。自分と鶴の戀は彼等の戀と全然別種であることを事實によつて證明して見せる。
男女の眞の戀は種々の形をとるも永遠不滅のものであることを事實によつて證明して見せる。

しかしもし鶴と自分との禍を生むならば、どうして禍が生れるかを眞にきわめたく思ふ。

自分は鶴と結婚する爲に他人から嘲笑されるであらう。しかしその嘲笑はやがて羨望になり、更に一轉して尊敬になり、自分の結婚は理想的結婚のある雛形となり得ると信じてゐる。

何にしろ自分は自分の鶴に對する戀程、智的な運命のことを考へ、自分の仕事のことを考へ、二人の個性のことを考へた戀はないと思つてゐる。さうしてこの戀の成就によつて幾多の事實、かくれたる事實を知ることが出來るやうに信じてゐる。

自分は今や鶴と自分の夫婦になれることを殆ど疑はないやうになつた。たヾその時間が早いか遲いかヾ問題であると思ふやうになつた。しかしさすがに時々は不安になる。だめなやうな氣がする。しかし又何時のまにかうまくゆくやうに思ふやうになる。さうして別に理由もなく不斷はうまくゆくやうにきめてゐる。

五月も六月も自分は川路氏からいヽたよりがあるのを空しく待つてゐた。七月も八月も空しく果報を待つた。九月の始めに一寸沼津の千本濱に行つた。――自分は夏中東京にゐた――こヽに一週間許りゐて自家に歸る時なぞは不在に川路氏から鶴の自家でとう〳〵承知したと云ふ返事が來てゐるやうな氣がしてたのしみにして歸つて來た。しかし何にも云つて來なかつた。九月も無事に過ぎた。

十月の或日自分は氣分のいヽ淋しい秋の氣を深く呼吸しながら庭を步いてゐたら女中が來た。さうして自分に一通の手紙をわたした。

自分の胸はおどつた。川路氏からの手紙である。

自分は封を切つた、さうして讀んだ。自分は全身に力を入れた。目から淚がながれた。

鶴は人妻になつたのである。

自分は耐えやう、〳〵としたが耐え兼ねて聲出して泣いた。自分はどうしていヽかわからなくなつた。自分は夢中で庭を步きまわつて自分の室に入つて机の上に泣き伏した。