文章 - 『羹』谷崎潤一郞 谷崎潤一郞

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「どうしたい君、ひどく太つたぢやないか。何處かへ旅行でもしたのかい。」
「うん、沼津へ二た月ばかり行つて居た。」
「それぢや、もう體は良くなつたらう。」
こんな應答を宗一は幾度もした。
いろ〳〵の學科の受持の敎師が、入代り立ち代り敎室へ現はれて、新學期に用ふる敎科書の名が五つ六つ黑板へ掲示された。其の中にはマイヤーの萬國史だの、ゲーテのヱルテルだの、古今集だのが書いてあつた。最後に井上と云ふ英語の敎師が入つて來て、
「私の方のは、ゴールドスミスのかう云ふ本を買つて來て下さい。」
かう云つて、黑板へすら〳〵と白墨を走らせながら、"She stoops to conquer" と、直立體の文字で記した。
「タイトルは "She stoops to conquer" です。ゴールドスミスの有名な喜劇で、標題を直譯すると、『彼の女は身を屈して成功を遂ぐ』とでも云ひますかな。もう少し芝居の下題らしく譯せるでせうが、何かうまい言葉はありませんかな。」
敎授は早口にぺらぺらと喋舌つて、
「私の友人に、『滑稽《こつけい》戀《こひ》の尺蠖蟲《しやくとりむし》』と譯した人がありますが、此れなんぞは惡くないです。『尺蠖《しやくとり》の屈《くつ》するは云々』と云ふ諺から、蟲の尺蠖と女の酌取《しやくと》りとを掛けたんですな。全體喜劇の筋が、令嬢が酌婦に化けて、思ふ男と添ひ遂げる話なんですから、『戀の尺蠖蟲』は非常に面白いです。」
「先生、to stoop は『屈む』と云ふ意味なんですか。」
と、突然隅の方から質問を發した者があつた。
「えゝ、"She stoops" で『彼の女は屈む』 "to conquer" ―――『征服する。』卽ち『征服す可く、彼の女はかゞむ。』です。」
「そんなら、標題を『姬かがみ[#「かがみ」に傍点]』としたら好いでせう。」
かういつたので、敎授も生徒もどツ[#「どツ」に傍点]と笑つた。さうして、みんな愉快さうに立ち上つて、ぞろ〳〵と外の廊下へ出た。
久しく書籍に親しまなかつた宗一は、學校のかへりに神田の中西屋から丸善へ廻つて、早速語學の敎科書だけを取り揃へ、ついでにホーソンのツワイス、トールド、テールスや、獨逸譯と英譯のダンテの神曲などを買ひ求めた。さうして、途々電車の中や往來を步きながら、丁寧に包んでくれた覆ひの紙を解いて、レクラム本のアンカツトの頁を指で切り開いて、物珍らしさうに一枚一枚眼を通した。少しの手垢も着かない、純白な紙の面には、獨逸の活字がこまかく鮮かに印刷されて、遠い洋《うみ》の向うの、燦爛たる文華の國を想はせるやうな、甘い匂が爽かに鼻をそゝつた。名ばかり聞いて居て、まだ手に觸れた事のなかつた一卷のヱルテルを、これから日に二三節づゝ習ひ覺えて、遲くも來年の春頃までに讀破することが出來ると思ふと、新學期の希望も快樂も幸福も、其のうちに潜んで居るやうな心地がした。
濱町の家へ歸つて、彼は暫く二階の書齋の本箱にいろいろの本を出し入れした後、レクラムはレクラム、キヤツセルはキヤツセルと云ふ工合に並べながら、遠くの方から眺めて見たり、また抽き拔いて拾ひ讀みをしたり、そんな風に午後の半日を潰して了つた。早く獨逸のクラシツクがすら〳〵と理解されるやうになりたい。少くとも今の自分の英語の程度ぐらゐに、喋舌つたり書いたりするやうになりたい。再來年《さらいねん》の夏、法科大學の書類を、一とわたり渉獵《せふれふ》してしまひたい。――かう云ふ旺盛な知識慾の策勵を甘受しつゝ、自分の光輝ある將來に就いて、彼はさま〴〵の空想を描いた。
しかし、其の光輝ある將來も、美代子と云ふ者が居なかつたら、何等の價値も興味もないのであつた。美代子が始終宗一を忘れずに居てくれると云ふ事が、彼の精力の源泉でもあり、努力の基礎でもあつた。彼が倦まず撓まず勉强を續けて行くには、どうしても時々戀人のやさしい言葉で、鞭撻の惠みを授かる必要があつた。彼は其の爲めに、一層通學を止めて向が岡の寄宿寮に當分居を定める方が便利だと思つた。刺戟のない、物淋しい兩親の膝下を放れて、野にうたふ小鳥のやうに開け擴げた、恣《ほしいまゝ》な友逹同士の中に交はり、思ふがまゝに美代子と文通し、圖書館の藏書に親しんだ方が好いと考へた。父母には濟まない譯であるが、自分の生活に意義を與へるには、已むを得ない事であつた。
「僕は今度から寄宿舎へ入らうかと思ひます。其の方が時間も經濟だし、勉强も自由に出來ますから。」
と、其の晚宗一は父に賴んだ。
「そんなら、さうするがいゝ。」
と、宗兵衞は造作もなく承知して、
「下町に居るより運動も出來て、體が丈夫になるだらうし、今頃からちツと人中へ出て置くのも宜からう。」
と云つた。
「それにしてもお前、明日から直ぐと行かなくてもいいだらう。着物は二三枚洗濯してあるけれど、夜具があれぢやあんまり汚いからね。」
母はかう云つて、其の晚から、急に蒲團の縫直しにかかつた。
それから三日ばかりたつた宵に、宗一は荷物を俥に積んで、いよ〳〵濱町の家から本郷へ引き移る事になつた。其の夜丁度父が不在で、お品は女中と一緖に格子先まで送つて出ながら、
「まあ好い月だこと。」
と、二足三足からりころり[#「からりころり」に傍点]と冴えた日和下駄の音をさせて、往來の中央《まんなか》へ進んで空を仰いだ。晝間のやうな月光を浴びた新道の地面には、お品の影がくつきり[#「くつきり」に傍点]と印せられて、宗一の久留米絣の單衣の上に、秋らしい風がひや〳〵と沁み通つた。彼は兩股の間に行李を挾んで、默つて大空の月を見上げたが、今更兩親に氣の毒な、可哀さうなと云ふ感慨の胸に迫るのを覺えた。
「では行つて參ります。」
帽子を取つて輕く頭を下げると、俥屋は梶棒を上げた。
「あ、ちよいとお待ち。―――若い衆さん、もう一つ包が何處かへ入らないかね。」
と、母は女中の手から、メリンスの風呂敷に包んだ大きな菓子の袋を受け取つて、
「此れをお友逹にお土產に持つて行くといゝ。書生さん逹だから、とても嵩がなくつちや足りないだらうと思つて、烏賊煎餅をどつさり[#「どつさり」に傍点]買はしたんだよ。」
かう云つて、宗一の膝の上に載せてやつた。
「それぢやお前、着物が汚れたら放つて置かないで、時々持つておいで。内で洗濯して上げるから。」
「えゝ、では行つて參ります。」
と、宗一はもう一度頭を下げた。俥は、夢のやうに物靜かな下町の夜路を拾つて久松橋を渡り、掘留から伊勢町河岸の藏造りの家並の前を、ぱたぱたと走つて行つた。
大學前の大通りへ來た頃には、空はますます冴えて、澄んだ空氣が水のやうに往來へ流れて居た。道路の左側には、人形町と同じに露店が並んで、其れを冷かして廻る人々の姿は、フツト、ライトに照される役者の如く、あか〳〵と浮き出て見えた。その中には夜目にも白い二本筋の制帽を冠り、小倉の袴を穿いて、參々伍々連れ立つて步きつゝ、古本を漁つたり、おでん屋の暖簾を潜つたりして居る一高の學生もあつた。自分も今夜から、彼等のやうに勝手な行動を取つて、若い人々に許されたいろ〳〵の享樂を恣にする事が出來ると思へば、彼は何物にも換へ難い、貴い境遇に置かれたやうな心地がした。さうして、孤獨な、物淋しい地位に棄て置かれた兩親の狀態を、成る可く想ひ起さないやうに努めた。
やがて俥は賑かな追分の通りから、一高の正門の内へ入つて行つた。彼は每日通ふ學校の夜景を眼にするのは今が始めてゞあつた。月光の漲る庭にこんもりと草木が生え茂つて、雨の降りそゝぐやうに絕え間なく聞える一面の蟲の音、黑く森閑と眠つて居る本館の建物、うす暗い闇に底光のする分館の硝子窓。―――凡てが宗一には珍らしかつた。彼は蒸すやうな靑葉の匂に鼻を衝かれながら、遠くに響く寮歌の聲に耳を傾けた。